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その33 〜2011年3月11日の思い出〜

2011年の東日本大震災から今年の3月で11年目を迎えました。このブログを書いているのは2022年の3月27日ですが…10日ほど前、3月16日の23時40分ごろ久しぶりに東北地方で震度6強を記録する地震が発生しました。久しぶりの大きな揺れで僕の住んでいる埼玉県でも震度4を記録して場所によっては停電も発生したようです。

いつまた大きな地震が来るのか…いくつものプレートがぶつかっている日本列島に住んでいる以上、地震や火山の噴火は避けては通れない災害です。どんな形にしろいつかまた大きな災害を経験することになるでしょう。震災から11年、あの日の記憶はどんどん薄くなっていますが…自分があの日、2011年の3月11日に何をしていたのか…少しでも覚えているうちにあの日の事を記録しておこうと思います。

3月11日は都内、水道橋でのライブが予定されている日でした。14時頃から身支度を始めてそろそろライブに出かけようと思っていた14時46分、強い地震が発生しました。家の中は大きく揺れていますが特に大きかったのはテレビ台の揺れ。テレビの上に作ったあった棚の上からCDが音を立てて落ち始めたのを反射的に支えに行ってしまいました。揺れている家具を支える…なんて今思うとあまり良く無い対応でしたね。まずは身の安全を確保するために丈夫な机の下に入る…とかの方が正解だったと思います。地震直後は正直まだまだ事態を甘く見ていました。

実はこの年の2月後半からテレビを見るのをやめていました。ワイドショーで連日取り上げられていた大相撲の八百長騒動…そして東日本大震災に先駆けてニュージーランド、クライストチャーチで発生した地震で亡くなった日本人の方達の報道を見ていて…

 

「テレビによって自分の感情が影響を受けすぎる」

 

ということに嫌気がさしていたんですね。大相撲の八百長に「呆れ」たり「怒り」を感じたり。クライストチャーチでの死者の報道に「悲しみ」を感じたり…。日々の自分の暮らしとは関係ないテレビのニュースの内容によって感情を左右されてしまう…このことに少し疲れていたのでしょう。思い切ってテレビを見ることをやめてしまいました。もっともその当時のテレビが地上デジタルに非対応、アナログ放送しか映らなかったため…2011年の7月に控えていたテレビ放送の地上デジタルへの移行までにテレビの買い替えをするのが面倒だった…ということも大きな理由でしたが!

 

なので2011年の2月末頃からはテレビを見なくなりニュースはネットかラジオで聴くだけという生活が始まりました。特別不自由と感じることもなく、むしろテレビの前にいた時間が減って音楽につぎ込める時間が増えて良かった…と思い始めた矢先の3月11日でした。

 

埼玉県の揺れ方は被災地に比べれば大したことはなかったと思います。それでも自分が生きてきた中では最大級の揺れ方でしたのでさすがにテレビをつけて状況を確認せずにはいられませんでした。各地の震度、そして津波が到達し始めた映像をテレビで見始めるとあまりの衝撃にしばらくは仕事に行くことを忘れてしまっていました。

ライブを中止するべきかどうか…これは自分では判断できません。今となってはあの日、都内に出かけるべきでは無かったと判断できますが…その当時はまだライブが中止になるかどうかもわかっていませんでしたしお店には連絡がつきません。時間的にまだお店の方も出勤前の時間だったと思うので連絡がつかないのは仕方ありません。埼玉県在住の自分としては入り時間の1時間半くらいは前に出ないと間に合わないのでお店と連絡がつくまで待たずに出発して移動しながらお店に確認の電話をする…ということに決めました。

とりあえず都内へ…と思って出発しますが高速道路は通行止め。移動を開始した15時頃はまだ埼玉から都心方面の車の動きはそこそこ順調でしたが都心へ近づくにつれて渋滞が激しくなってきました。地震直後から都内の鉄道は運転を停止していましたが午後6時頃に終日運転中止を決定、そして駅のシャッターを閉めたことから混乱に拍車がかかっていったような記憶があります。

17時前にはお店に連絡がついてライブの中止が決定しました。そのまま家に戻れば良かったのですが…当時まだ全盛だった

「mixi」

で帰宅困難に陥っているサックス奏者の友人の投稿を見ました。確かテレビ局で収録中に震災発生、収録も中断。そのまま帰ろうとしたけど電車が動いていないので歩いて家に向かっている…という投稿でした。自分がいる位置からそれほど遠くもない…ということで

「迎えに行こうか?」

と連絡しました。普段なら20分程度の距離だったと思います。しかし…都内の道路はすでに激しい渋滞が発生していました。帰宅時間を迎えていた方達の多くが徒歩で帰宅を始めたのです。どうせ帰れないなら空いているお店で飲み始める…という猛者もいましたがあれだけの揺れでしたから…自宅の被害…家族は無事か、何か倒れて壊れたものはないか、食器は割れてないか???と心配になって帰宅したくなる…という気持ちもとてもよくわかります。自分も同じ状況に置かれたならやはり歩いて帰ろうとするタイプだと思います。

たっぷり1時間半ほど経過して友人と合流した頃には当たりはすっかり暗くなっていました。カーナビのテレビからは津波の被害状況と共に東北地方の各原発の

「緊急停止」

という話題が出ていました。ともかく

「安全に止まったらしい」

と少し安心したことを覚えています。この時、すでに炉心への注水が止まってメルトダウンへ向かっていた…などということはそれから随分と時間が経ってからわかったことで…この頃は原発といえば

「日本には原発がたくさんあるけどチェルノブイリとは型の違う安全なタイプの原発のはず」

程度の知識しかありませんでした。もちろんそれは幻想で津波による電源喪失でレベル7という極めて深刻な事故になる…とはこの時点ではもちろんわかりません。

ともかく不安な状況下で友達に会えたのはとても心強かったです。一人でニュースに触れていた時とは違って緊急事態に仲の良い友人と一緒にいるとこんなに安心できるのか…と心底ホッとした事を覚えています。しかし相変わらず渋滞は激しいままでした。こんなに都内に人がいたのか!!と驚くくらいの人数が途切れることなく歩いていました。

 

なんでこんなに渋滞が起きるのか???といえば…歩行者が途切れることなく横断歩道を渡っているためです。交差点に左折車両がいた場合、歩行者信号が赤になるまで…いや、下手すると歩行者信号が赤になっても渡ってしまおうとする残留歩行者のために一度の青信号で一台しか左折できない…という現象が多くの交差点で発生していたのです。大きな道路ほど激しく渋滞していました。そこそこ都内の裏道には詳しい方だったので生活道路、いわゆる抜け道というものを駆使してなんとか移動しましたがそれでもどこかで歩行者の列を越えなければならず…その度に平気で数分間足止めを受ける…という状況でした。友人のサックス奏者を自宅まで送り届けた頃はすでに夜の22時過ぎ。カーナビのテレビでは大火災が発生している気仙沼の様子が映し出されていました。

高速道路は相変わらず通行止めでしたが所沢に戻った頃に関越道の通行止めは解除されていました。都内の大渋滞の間、常にエンジンは回しっぱなしでしたから…なんとか自宅に戻った頃にはガソリンはほとんどなくなっていました。

「ま、今日は疲れたし明日の朝にでも…」

と考えていましたが翌日からはガソリンを始め生活用品の買い占め等でスーパーから物がなくなる…という体験をすることになります。新所沢のパルコ内の即席麺の棚は辛ラーメン以外の全てのラーメンが姿を消し…鮮魚売り場にも切り身や刺身が全て売り切れていたので初めて丸ごとの鯵を数匹買って捌いた事を今でも覚えています。

大変長くなったのでこれくらいで一区切りいたします。この後は地震、津波の被害もさる事ながら刻一刻と変化していった原発事故の状況に関心が寄せられていったのは多くの皆さんも同じではないでしょうか。

あれから11年。記憶が風化してしまう前にあの日の行動を書き留めておきました。反省点だらけですね。震災時に車で人口密集地に向かうなんてもっての他ですし…普段から災害時のために食料の備蓄はしておかないとダメですね。今もしっかり備えができている…とは言い難いですね。まずは非常用持ち出し袋の中の食料の賞味期限を調べるところから始めたいと思います。

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