歴史探索

その28 祇王寺訪問(2019年)〜史跡をめぐる旅の楽しみ方〜

みなさんこんにちは♪ベーシストの岸徹至です。

今回は過去の旅、そして僕なりの歴史の楽しみ方について書いておこうと思います。

ミュージカルの仕事等で大阪に長期滞在した時には仕事の合間を縫って色々な場所に出かけていました。有馬温泉、神戸、神鍋高原、湯村温泉、城崎温泉、鳥取砂丘や淡路島に足を伸ばしたこともありますが…何といっても京都にはよく行きました。中でも嵐山、嵯峨野、奥嵯峨野方面が大好きなのですが…その中でも今日は二年前の2019年5月、キンキーブーツの大阪公演で訪れた京都の

「祇王寺」

のお話です。

祇王寺。フィルムカメラで撮影。

このお寺は平家物語に登場する「祇王」という白拍子にゆかりのあるお寺です。まずは簡単に祇王にまつわるあらすじをご紹介しましょう。

◎祇王の物語

《…時代は平安末期。1100年代のお話です。白拍子の祇王は舞も歌も大変に上手、その上容姿もとても美しかったため都で評判の白拍子でした。その名声は高く…祇王は時の権力者だった平清盛の寵愛を受ける事になります。清盛の庇護のもと祇王は母親の刀自、妹の祇女ともども都で何不自由ない暮らしを送っていました。そんなある日、仏御前という若い白拍子が自らの芸を見せようと清盛のもとを訪れます。しかし清盛は呼ばれもしないのに芸の押し売りに来た仏御前を

「厚かましい奴…!!」

と怒り追い返そうとします。同業のよしみ、そしてまだ幼い仏御前を哀れに思った祇王は舞いを見てくれるように清盛を説得します。祇王のとりなしで清盛の前で今様を舞う事を許された仏御前。その天性の歌声と気量に清盛はすっかり仏御前に魅了されてしまいます。しかし自分を助けてくれた祇王を差し置いて清盛の寵愛を受ける事を仏御前は良しとしません。そのかたくなな姿に業を煮やした清盛は

「祇王が近くにいるから仏御前が気を使うのだ」

と祇王を屋敷から追い出してしまいます。栄華の日々からの突然の没落。悲嘆に暮れて過ごす事数年、ある日祇王のもとに清盛から手紙が届きます。その内容は

「最近仏御前の気分が優れぬようだ。舞など踊って仏御前の無聊を慰めよ」

という傍若無人なものでした。あまりといえばあまりな手紙…しかし時の権力者の清盛からの呼び出しを無視などできるわけがありません。母親、刀自からの強い説得もあって祇王は泣く泣く清盛の待つ西八条の屋敷に出向きます。

かつての自分がいた場所には自分の代わりに若く美しい仏御前の姿。望まない余興をやめさせようと仏御前は清盛に慈悲を乞いますが清盛は聞き入れません。覚悟を決めた祇王がこの時歌った今様…一世一代の哀しくも美しい歌声に仏御前も…物見高さで集まっていた平家の公達も滂沱の涙をこらえることが出来なかったと言います。

清盛の心がわり、そしてかつての栄華の日々と比べてあまりにも落ちぶれてしまった自分への憐れさから…祇王は死を決意します。しかし母親の刀自の説得で親子三人、揃って髪を下ろして仏門に入ります。その場所が奥嵯峨野の往生院…現在の祇王寺です。この時祇王は二一歳、祇女十九歳、母親の刀自が四十五歳だったそうです。

こうして仏門に入って俗世間から離れて暮らし始めた祇王一家のもとを…ある日一人の美しい尼が訪れます。それは仏御前が若くして髪を下ろして出家した姿でした。自分へ対する寵愛の情も永遠には続かないと無常を感じて清盛の元を去って出家した仏御前は…この時わずか十七歳。清盛に人生を翻弄された四人の女性たちは生涯、この祇王寺で仏と共に暮らし続けた…これが平家物語で語られている祇王と祇王寺にまつわるお話です。》

◎歴史の真実と物語

ざざっとご紹介しましたが…この逸話が描かれている平家物語は源頼朝が鎌倉幕府を開いた後に成立しています。なので源氏を正当化して敵方であった平家、特に清盛を悪人に描く傾向にあります。平家物語で語られている内容の全てが現実ではないでしょうし…もちろん全てが虚構でも無いと思います。

そもそも900年ほど前の話、時の権力者のプライベートな部分が現代までどの程度原型をとどめて伝えられているのか…難しいところですよね。例えば昨今、取り沙汰されている様なワイドショーネタやフライデーネタ、文春の記事だって本当のところを知るのは本人達のみなわけです。記事の内容は基本的には伝聞でしかありません。他にもわずか数十年前の昭和の芸能人、政治家、財界人達の豪放磊落な伝説的な逸話…

「大物芸能人の誰々と誰々は実は恋人同士で…云々…」

みたいな…まことしやかに語られている昭和の噂話の類ですら結局のところ真実はわからないのです。昭和という比較的近い時代の出来事だって推測、憶測を含んでいて真実がわからない事はたくさんあります。ましてや

100年、1000年と過去に遡った時…どこまで真実に肉薄できているのでしょう?

不明瞭なことがらを含んだまま現在に伝えらている

「歴史の物語」

…事実は歴史の伝承者の口や筆を経ることによって必ずある程度の脚色が加えられて「物語」として伝えられます。逆に一見、荒唐無稽な「神話」という物語の中にも現実とリンクする事柄が隠れている事も多いでしょう。そんな

「現実性と物語性」

…ノンフィクションとフィクションが堂々と同居しているのが歴史の面白い所です。だからこそ今回取り上げた

「祇王寺」

のように紛れもなく現実に存在する

「史跡」

を訪れることでノンフィクションとフィクションが織り交ぜられたふんわりとした「歴史の物語」「その場所」にいる事で自分の体験として強く焼き付ける事が出来る。これこそが史跡を訪れる旅の醍醐味だと思っています。

とても静かな佇まい

◎歴史は見る角度で見え方が違う

本当の意味で歴史の細部までを知り尽くす事はとても難しいです。というかほとんど不可能だと思います。

例えば誰でも構いません、歴史に名を連ねているような人物達…徳川家康、織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、勝海舟…ナポレオンでもマリーアントワネットでもアドルフヒットラーでも…誰かを思い浮かべて下さい。その人物の

「人生の全て」

を完璧に追うこと、これは不可能です。一人の人間の人生全てを100%追体験しようとすればその人の生きた人生と同じだけの時間がかかります。一人の人間の歴史を知る…ということは大なり小なりその方の「人生や出来事」から抽出されたエキスを知る…ということになります。それが歴史を学ぶという事であり…その

「人物や出来事の抽出方法」

によっては同じ人物や出来事の見え方はかなり変わってくると思います。歴史的な偉人の功績も…ある立場から見ると反逆者、また別の立場からすれば英雄…なんてことは珍しくはありません。

「平将門」

は良い例かもしれませんね。関東では英雄とされて神田明神をはじめ将門信仰を集めていた場所が沢山あるのですが…京都御所を中心とする西日本では反逆者として見られています。将門の乱から徳川幕府の時代に至るまで朝廷に叛逆して新皇を名乗った平将門に対して関東人は

 

「天子様に楯突くなんて恐れ多いことを…」

 

などとは思っていなかったはずです。徳川幕府が朝廷を重んじるようになるのは幕末、ペリー来航の頃からです。幕府ですら…内心では朝廷を軽んじていた江戸時代、庶民が平将門を反逆者と思っていなかったとしてもなんの不思議もありません。むしろ信仰の対象として東京の中心、神田明神に堂々と平将門は祀られていました。しかし薩長の新政府が天皇家を京都から東京に行幸たてまつった明治初期になってから

 

「天皇家に反逆した平将門を祀っているとは何事だ!!!」

 

ということで明治7年(1874年)、平将門は神田明神の本殿祭神から外されます。それからなんと100年以上!!!太平洋戦争が終わり数十年経過した1984年まで平将門は神田明神の本殿祭神に復帰できないままでした。これは本当に歴史の見方次第で英雄にも朝敵にも…はたまた怨霊にもなり得る…というとてもわかりやすい例ですね。富国強兵につとめ近代化を押し進めた明治政府ですら900年前の逆賊、平将門にこだわっていたのです。歴史で語られることの多くはその人の人生を抜粋したものや事件を抽出、短略化して取り上げられるだけでなく

敵方、味方での評価が全く違う

…という問題もあるのです。

 

「モンゴルから見たチンギスハーン」

そして

「日本からみたチンギスハーン」

 

違って当然です。平将門の評価も関東と関西で違いますし…平将門を討った平貞盛の数百年後の子孫、平清盛の評価も違いがあって当然です。

◎歴史は劇的な方が語りやすい

僕は清盛のことをどこか憎めないと感じています。そう感じるエピソードの一つは…将来の禍根になるとわかっていながらライバル氏族の源氏の子孫…平治の乱で敗北した源義朝の息子、まだ幼かった頼朝を自身の母親(義理の母の池禅尼。清盛の父、平忠盛の後妻)からの強い助命嘆願によって助けたという一件です。それも離れ小島に流刑ではなく伊豆という陸続きの場所に流刑にしたのですから…甘いと言えば甘すぎる処置だったと思います。かつて保元の乱において叔父の平忠正を躊躇なく処刑した清盛とは別人のようです。そしてこの頼朝に対する温情が源氏の勝利へと繋がるのですが…これはまた別の機会に取っておきましょう!!ともかく

「源頼朝」

の命を助けているというエピソードが清盛を単純な

「悪役」

 

とは思えなくしてくれています。

 

さて、話を祇王に戻します。祇王と仏御前のやりとりも…もしかしたら現実ではなくある程度脚色されたストーリーに書き換えられているかも知れません。歴史上のいろいろな出来事はやはり平坦であるよりもどこかインパクトのあるストーリーを望んでしまう…という語り部の趣向が働くのでしょう。ある程度の脚色がなされるのも当然かと思います。そして逆に言えば

「劇的」

であるからこそ歴史は語り継がれていくのでしょう。

「赤穂浪士、吉良邸討ち入りの日」

この日は残雪はあったけれども雪は降ってなかったそうです。…しかし映像にする時にはやはり

「深々と降りゆく雪の中」

の方が圧倒的にインパクトがありますし…視聴者としてもその方が印象に残ります。

 

実際の祇王と仏御前、そして清盛の関係性が最初に書いたように劇的なものであったかどうかは…やはり本当の意味での真実はわからないことです。それでも実際に祇王寺を訪れると…確かにここに四人の女性が暮らしていたではないか、そしてこの静かな寺院での暮らしは俗世間の辛さから隔離されて生きることが出来たのではないか…と思えます。

苔の美しい祇王寺内の庭園

とても静かな庭園です

◎最後に…

祇王寺の本堂内は撮影禁止なので庭園の写真のみですが…この日はまだコロナ化の始まる前、インバウンド需要の華やかなりし2019年です。大阪から阪急電車で降り立った「嵐山」は様々な国から観光に訪れている外国人観光客がとても多く渡月橋も人で溢れかえっていましたが…。

写真より人は多かった印象です。

そんな中でも祇王寺は認知度が低いのか…とても静かでしたよ。小さな本堂内に靴を脱いで上がって休憩する事もできます。堂内には祇王、妹の祇女、母親の刀自…そして仏御前の四人の像と…肩身が狭そうに背後に安置されている清盛像を見ることが出来ます。人の少ない時期なら本堂内で美しく静かな庭を眺めつつ30分でも1時間でも瞑想にふけることも出来ますよ。

祇王寺…再び訪れたい場所です。皆様も京都をご訪問の際にはぜひ足を運んでみて下さい♪

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